ロバと王様とわたし
明日はみんな死ぬ
ロバは飢えで
王様は退屈で
わたしは恋で
時は五月ジャック・プレヴェール『五月の歌』より
片思いとは不思議なものです。
片思いはつまり、一方的な恋愛感情です。相手に自分の恋愛感情が伝わっていない状態、もしくは相手に伝わっているけれど、相手からの恋愛感情を受け取れない状態が、一般的に「片思い」と称されています。
片思いを経て両想いに至る、つまり恋愛が成就することを「恋が実る」なんて表現することもあるります。しかし、片思いのゴールが必ずしも「恋が実る」ことではなく、「私は片思いのままでいいの」という人もいたりもするから、よけいにややこしく感じます。
中村航さんの「絶対に最強の恋の歌」という本の中に、
「恋を突き抜けて、愛に至れ!」
という力強い言葉がありますが、多くの場合、片思いも恋愛や結婚に至るまでのプロセスのひとつであることは間違いないでしょう。
ただし、恋愛と片思いにはその性質に大きな違いがあります。
それは、恋愛が相互交換の楽しみが主であることに対し、片思いは自己完結型の楽しみが主である、という点です。
相手のどんなところが好きなのか?
これは本当に恋なのか?
あのひとはどんな人がタイプなんだろう?
果たして自分と釣り合うのだろうか?
こういった思考は、もちろん相手への接触(たとえ遠くから見ているだけであっても)なしには生まれない思考ではありますが、それでもその大半は自分の中の想像力との対話です。自分がこんなにいろんなことを考えていることを相手は知りませんし、知らせないことが、いわば片思いの作法と言ってもいいでしょう。
寺山修司はその著書「さよならの城」の中でこんなふうに言っています。
片想いってなに? と女の子が聞きました。
想像力の楽しみだよ。 とぼくは答えました。半分の恋じゃないの? と女の子が聞きました。
そうじゃないよ。 とぼくは答えました。
片想いというのは、まだ恋のはじまる前の人の楽しみなんだ。
この「まだ恋がはじまる前の人の楽しみ」というのは片思いのまま進まない(進めない)人たちへの一種の皮肉であると共に、「片思いの贅沢さ」を適格に表現しています。
仮に愛情というものを、相手を幸せにしたいと思う気持ち、と定義したとき、
片思いはやはりそこには当てはめられません。
しかし、片思い中の自分の感情が相手によって揺さぶられることは確かで、
なので片思いは自己完結型な性質をもっているにも関わらず、その思考の元は相手との関係の中にある、という不思議なおもしろさがあります。
この贅沢なおもしろさの残念なところは、自分が当事者の場合、その状態を楽しんではいられない、ということでしょうか。
なので、片思いがいちばん楽しい、なんていっているおじさんは、自分がいま片思いをしていません、といっているようなもので、僕もまさしくその一人です。
「片思いがしたい。」
というなんとも歳に合わない感想で今日は終わりにしたいと思います。