アート展で出会うインスタレーションの魅力

アートは「理解する」ものじゃない。「感じる」ものかもしれない。

どうも、イッパイアッテナの西澤です。

みなさん、デザインとアートの違いって知っていますか?
これらについて意識してこなかった方は、すぐに答えられなかったんじゃないんでしょうか。

▼デザインとは
目的や機能を持ち、人の行動や思考を導くもの。課題解決のために設計される、いわば“他者のため”の表現。

▼アートとは
自己の内側から生まれる衝動や思索の具現化。明確な目的や理解を必要とせず、見る人それぞれが自由に感じ取り、解釈する“自分のため”の表現。

私は美術やアートに触れることが好きなのですが、表現力や創造力、風刺などの批評的思考、文化や歴史への理解、観察力、感性、これらを育て、EQ(心の知能指数)を高めることを目的にアートに触れることが多いです。これだけでも十分アートの魅力はあるのですが、アートの魅力はそれだけじゃありません。アートの最大の魅力は、作品を「理解できなくてもいい」ところにあります。

アートは「わからない」こともまた一興であり、“触れた人がどう感じるか自由”という点が最大の魅力です。

一部には、「これを理解できないなんてまだまだだな」と、話しかけてくるベテランのお方もいらっしゃるのですが、アートにおいて理解されることはあくまで重要ではないと私は思います。アートとは自己表現なので、それを全く知らない他者が見たところで理解できないことはむしろ当たり前です。また、全ての人から理解されるものは、ある規則に沿っているともいえ、ルールや規則の範囲を超えた“個性”として表現されているのか、という疑問も生まれそうです。※個人的見解です

とはいえ、アート展や美術展では作品の近くに説明(キャプション)が添えられていることが多いですよね。普段アートに馴染みのない人でも作家の想いや作品の背景を知る手がかりが得られ、それをきっかけに独自の感性で作品と向き合えるので、理解しようとする気持ちさえあればアートは誰でも楽しめる世界だと思います。

そんな現代のアート体験の中で、私がここ最近で感銘を受けた二つの展覧会を紹介します。どちらも「理解」と「感性」のバランスを考えさせられる素敵な展覧会でした。

【東京都現代美術館】坂本龍一 | 音を視る 時を聴く

人生は短く、限られているけれど、優れた芸術は作者の死後も残り、人々に影響を与え続ける

坂本龍一

坂本龍一さんが生前に構想していた自身のアート作品の展覧会です。

最初のブースで、東洋の伝統楽器「笙(しょう)」を国際的に広めた第一人者“宮田まゆみ”さんが、音を奏でながら端から端へゆっくりと進み、時間を溶かしていきます。私が行ったときは、入場した後もブースへの入場規制がかかるくらい たくさんの人で溢れていました。しかし、場内はとても静かで、笙の音だけが響いていたあの感じが今でも忘れられません。

また東日本大震災の津波で被災した宮城県農業高等学校のピアノも展示されており、敢えて修理せず壊れた状態を「自然の調律」として捉え、作品化しているところも私にはない発想でとても魅力的でした。

著書「ぼくはあと何回、満月を見るだろう」での構想もこのアート展で具現化されていて、坂本龍一さんが考えたインスタレーション(※1)がここに詰まっているなと感じれた個展です。気づけば3時間も居てしまったくらい、五感を通して深く没入できるアート展でした。

#ぼくはあと何回、満月を見るだろう #芸術は長く、人生は短し

※1 インスタレーション:空間全体を使って作品を構成する現代アートの表現手法で、鑑賞者がその空間に入り込み、五感を通して体験することで成立するアートのこと。作品というよりも“体験そのもの”がアートとされ、音・映像・光・匂いなど多様な要素が用いられる。

【DIESEL ART GALLERY】岸裕真 | The Frankenstein Papers

アーティストの岸裕真という媒体を通して、私たちが伝えたかったのは『ぎこちなさや不気味さを受け入れる』ということでした

MaryGPT

メアリー・シェリーのゴシック小説『フランケンシュタイン』の内容を自作のAI(MaryGPT)に機械学習させ、展覧会のキュレーション(※2)すべてを委ねるという大胆な試みをしたアート展です。

遠くから見るとレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」や「モナリザ」を思わせる作品がありますが、近づくとそれらが溶解したような不思議な作品があったり、人のようで人じゃないものがCTスキャンで投影されていたりと、見てはいけないものを見ているかのような不気味さが作品全体を通して感じられました。

Maryは『フランケンシュタイン』の内容を学習したはずなのに、レオナルド・ダ・ヴィンチが出てきたのはどうしてだろう。私が解説内容を忘れてしまって真意はわからないのですが、Maryは、芸術の頂点にダ・ヴィンチがいると考えて、ダ・ヴィンチの作品を用いて不自然さや不気味さを可視化することで独自のアートを表現したのでしょうか。

とはいえAIによって生成されたこの”ぎこちなさや不気味さ”は、これからAIの生成する作品が洗練されていくにつれ、失われていくのかもしれない。そんな時代の移り変わりを実感させる、期間限定の体験とも言えるアート展でした。

※2 キュレーション:インターネット上の膨大な情報の中から、特定の視点や目的を持って収集、選別、編集し、新たな価値を付加して共有すること。学芸員(キュレーター)が美術館の展示物を企画・運営することに由来する。

アートと向き合う時間

冒頭で述べたデザインとアートの違いに戻ると、デザインが「理解される」ことを前提としているのに対し、アートは必ずしも理解を求めていないという点に本質的な違いがあり、その自由さこそがアートの持つ大きな魅力というお話をしました。

ここまで書いてきたことも、あくまで私自身の感想にすぎません。もしかすると、他の人には受け入れられないような感性かもしれません。でも、それでいいのだと思っています。

むしろ、そうした“違い”こそがアートの面白さを深めてくれるような気がします。

たとえば私自身、展覧会に行ったあとによくブログや口コミをチェックします。「あの作品を見て、この人はどんなことを感じたんだろう?」と、人それぞれの視点に触れることで、自分にはなかった見方や解釈に出会えるのがとても好きです。ひどい時なんてそれに3,4時間を費やすこともあります。

もしかしたら私は物事をゆっくりと自分に落とし込んでいくのが好きなのかもしれません。

帰りはOSUSHIで

帰りはやっぱり🍣ですよね。

別に🍣じゃなくてもいいのですが、美味しいご飯で1日を締めくくると、その日1日が良かったような気分になりますよね。“終わりよければすべてよし”というわけではないのですが、“今日はいい日にしたいな”と思った日にはなるべく美味しいご飯屋さんへ行くようにしています。

夜に美味しいものを食べるのでなかなか痩せられないというデメリットはあるのですが、その日が“幸せ”で終わるというメリットが上回ります。

美味しいご飯を食べながら、今日足を運んだアート展について振り返るのも楽しいです。

これからも、色んな展覧会を回り、自分のEQを少しずつ高めていけたらと思います。みなさんも、アートとの出会いを通して、自分だけの感じ方や楽しみ方を見つけてみてください。

きっと、新しい世界が広がると思います。