星野源、6年ぶりのツアー。「すべていつか必ず終わるのになぜ」と向き合う。

MAD HOPE Gen Hoshino Japan Tour 2025

はじめに、これはライブレポートではありません。

少し暗い話にもなるかも。でも、ただ暗いだけの話にはならないはずです。普段からあまり飾らない文を書いているつもりですが、もっと等身大の話、というか、思ったことをそのまま書きたいです。

書きます。

会場を駆け抜ける叫び

「曲は終わる。ライブも終わる。人はいつか死ぬ。だから今一緒に…!」

星野源がそう叫んで、会場が熱狂に包まれ、あの日のライブは幕を閉じた。

あれは、ただ叫んだのではなかった。ただならぬ時間と景色を越えて、積み重ね、研ぎ澄まされた彼の想いが、その声に乗って、会場を駆け抜けていた。

さらに、会場にいる全員の爪先から、鼓膜から、額から、体と心の奥深くに響いていたに違いなかった。

もれなく僕にも響いていた。その時、目の前の景色が歪んで、どっちが上か下かわからなくなるほどに感覚を狂わされていた。感情が感覚を置いてけぼりにしているような、そんな感じ。

そもそも、今の僕に刺さりすぎるテーマだったんだ。

祖母のこと

この記事が公開されるころにはきっと、僕の祖母はこの世にいない。

癌と診断され余命を宣告されてから、その余命を遥かに越え、たくさんの奇跡が命を繋ぎ、祖母は生きている。

しかし、ここ1,2ヶ月では著しく弱っていくのを目の当たりにしていた。ついに数日前、訪問医から「いよいよ」ということを告げられた。

峠といわれたその夜は、家族が交代で祖母の手を握り、その手が温かいまま朝が来た。
そのまた次の日も、朝、温かい手を握り「おはよう」が言えた。

何度奇跡を起こすのか。

このまま、起き上がって、歩き出して、また、あの美味しいご飯を作ってもらえるんじゃ無いか。と考えてしまう。
でもすぐに、それは叶わない奇跡だと悟り、胸が裂けそうになる。

目の前でかけがえのないひとつの命が終わろうとしていて、それが抗えない運命だと、徐々に、確かに、頭と心で理解をしているころに、そんなテーマを掲げた星野源の6年ぶりのツアーが開催された。

なぜ

いつか必ず終わるのになぜ、消えてしまうのになぜ、美しい景色に涙を流し、人と出会い愛すのか。

ツアーが開催されるまでの6年間、星野源はこの「なぜ」と真正面から向き合って過ごし、曲を作って、僕らにその想いを届けてくれていた。

それによって、僕もその「なぜ」に同じく真正面から向き合って過ごしていた。

それを経て、ライブでは星野源なりの「答え」を真正面からぶつけられ、全身で納得させられるような感覚があった。まさに身に染みてというやつだ。

この「なぜ」に辿り着くまでの星野源の人生は、ありがたいことにさまざまなメディアを通じて知ることができている。(大人計画ウーマンリブ出演の星野源から知っているのは少し自慢)

今の姿から想像できないような苦悩や葛藤があったことは彼の人生を追わずとも本人談の節々でも感じられる。

ただ、この苦悩こそが、ここまで煌びやかに輝く星野源の言葉が、凡人の僕にも響くようになっている理由なのだと思う。

この人生があってこそ、この「なぜ」の重みと厚みがあって、その「答え」で納得感を与えられるんだと思った。

意味なんてない

「すべてのことに意味なんてない」と、演出の中で語られた。

そう、すべて意味なんてないし、すべてどうでもいい。すべては必ず終わりがくる。
これが星野源の答えであり、メッセージだった。

それを聞いて、指先がピリッとした。悲しさの表現としては独特だけど、これは悲しいという感情だったと思う。

そこから、圧倒されるようなパフォーマンスが続いた。
悲しさに重なる興奮は歪なようで、とても自然だった。

そして再び回帰する。「なぜ?」と。

すべてのことに意味がないと思わされたあとでも、涙を流し、心を震わせ、跳ねて歌い、笑顔が溢れた。

「意味なんてなくてもいい」と、語られずとも感じることができる本当の答えであり、メッセージだった。

だから今を

全て意味なんてないからこそ、どうでもいいからこそ、今を楽しむんだという。

全て等しく終わるからこそ、今を楽しむ理由になるんだという。

この「楽しむ」というのは、ただ楽しむという意味ではない。まさにこのライブで全身で感じ、味わい抜いた「楽しむ」。

人と出会って、そして別れ、抱く気持ち。目の前の景色を見て、感じ、抱く気持ち。
さらに、その気持ちが混ざり合って何かを創造する時の気持ち、それがこの場で言う「楽しい」という気持ちだと思った。

僕の全てが終わるまで、僕は今を楽しむことをやめない。