──さあ、物語が始まるよ
──あたし少しこわいわ……あなた、いい人?悪い人?お名前は?ジャン・アヌイ『ユリディス』より
はじめまして、春木 世覇(はるき せいは)です。
僕たちは自己紹介をするとき、はじめまして、とあいさつをします。
はじめまして、こんにちは、私の名前は何々です。
僕はいつも、この「自己紹介」が苦手でした。
言葉で自分のことを伝えようとするのですが、いつも伝えている内容に違和感を感じる。
見栄や謙遜が見え隠れする耳障りがよく理解しやすい言葉を選んで人に伝えるとき、
僕は僕という人間を見失ってしまうかのような錯覚に陥ることさえあります。
「僕はこんな人間です。」と、誤解なくさわやかに伝えられる人になりたい、
と思いますが、たぶん伝えきれないだろうな、という淡い諦観があることも確かです。
そもそも、自分の気持ちを過不足なく正確に伝えることの、なんと難しいことか!
わたしは優しい人間です。というとき、優しさの定義は人それぞれだし、
人に受け取り方を強要できるものでもありません。
それに、自分のことを優しいと称する人はどこか信用できません。
結局、人となりとは言葉ではなく、その人との関わりあいの中で伝えるものであって、
自己紹介などで完結できるようなものではないのでしょう。
相手を知る、という行為は基本的に対話と時間の共有によって成り立ちます。
その人と話をし、その人の言葉を聞き、その人と同じ経験をする中で、
その人と自分がどういう関係性で成り立ち得るのか、を形成していくことで、
人は相手の人となりを理解していきます。
つまり、その人を知る、ということは、その人と自分の関係性を確立させる、
という行為であって、人と人との間にあるものなのです。
それを真剣にできた人とだけ、その人の人となりを関係づける
ドイツの作家アンネ・フランクは、その代表作『アンネの日記』の中で
次のように言っています。
ほんとうに他人の人柄がわかるのは、
その人と大喧嘩したときだということです。
そのときこそ、
そしてそのときはじめて、
その人の真の人柄が判断できるんです。
ケンカができる、ということは、相手が無視できない存在で、かつ
お互いの関係が発展途中であることの証明です。
まわりの人と、クラスメイトと、同僚と、恋人と…
ケンカをした数だけ、その人を知るきっかけを得ることができる。
ケンカをせずに相手を無視するほど不誠実なことはありません。
このブログで、僕はあなたと大喧嘩がしたい。
僕の一方的な会話。主張。ほんとの話。本との話。
それを通して対話をし、ケンカをしていただけたら、こんなに嬉しいことはないです。
「たくさんケンカをしよう!」
これが本日の僕の主張です。