マジメの落とし穴

僕はだいたい書類選考から最終面接まですべて絡むことが多いのですが、
面接官をしていると、こんな言葉をよく聞きます。

「わたしの長所はマジメなところです。」

マジメ。

広辞苑で「まじめ」と引いてみると、次のようにありました。

まじめ【真面目】
①真剣な態度・顔つき。本気
②まごころがこもっていること。誠実なこと。

■広辞苑より抜粋

さて、僕はマジメという言葉を聞くと、なんだかつまらない気持ちになります。

彼ら面接を受ける人間が称する「マジメ」は、広辞苑であるような「本気さ」を表しているのではなく、
規則を遵守する従順さや、決められた仕事を黙々とこなす愚直さを表しているように思うからでしょうか。

往々にして、「マジメさ」を売りにする彼らは、どこかかっちりしすぎたリクルートスーツを着て、
無難な髪形をし、用意してきたような質問をします。

だいたい、彼らのいう「マジメさ」は、学校生活の中での美徳です。
人から学問を教えられ続けるような環境において、なるほど「マジメさ」はひとつの長所でしょう。
学問を身に着けることにおいて、いちばん普遍的で間違いがないのは、「マジメ」に学ぶことです。
ただし、それは本来の意味での真面目さ - つまり、真剣な態度・顔つき – で学問に向き合うことと同義
ではないでしょう。

まして、イッパイアッテナの社員には石川啄木の

はたらけど
はたらけど猶わが生活(くらし)樂にならざり
ぢつと手を見る

ような人生を歩んでほしくはないですし、
そんな「マジメさ」を堂々と面接で誇るような人が、少なくとも
イッパイアッテナでやっていけるとは思いません。

 

「マジメ」である、ということにコンプレックスを感じるべきだ、と僕は主張します。

「マジメさ」を誇るのではなく、「真面目に」取り組んでること、「真剣な」想いにこそ誇りを
持つべきであり、まっすぐに生きようとしてぶち当たる壁に対する「真面目な」姿勢にこそ、人間の価値が
あるのではないでしょうか?

マジメに生きているだけでは、真剣に人生を送ることなどできない。

だいたい、

マジメに生きた続けた結果が、

学校出てから 十余年
今じゃリッパな 恐妻家
呑んで帰って シメ出され
雨戸におじぎを 五万回

ハナ肇とクレージーキャッツ『五万節』より

なんてことじゃ、つまらないじゃありませんか。