いいオトナの幸福論(1)

友人や会社の仲間とうまい酒を飲んでいると、ふと「幸せだな」と感じるときがあります。
うまい酒。うまい飯。気の置けない友人との語らい。それはそれは大事な時間で、
僕はこの時間を何度も持ちたいと思います。

クラシックが流れる静かな喫茶店の片隅で、お気に入りの本のページをめくるのも幸せです。
雨なんかが降っていると特によい。雨音がほかの音を消し、珈琲の香りを嗅ぎながら、
僕はこの時間がずっと続けばいいのに、と思います。

あるいは、思い返せば恋人との時間は、ゆったりとした多幸感を伴いました。
愛する人とぎゅっと抱き合うその時間は、間違いなく幸せの象徴のひとつですし、
その時間を永遠にしたいがために、神様の前で愛を誓ったりもします。

家族との時間だって、(私は子どもがいないのでわかりませんが)とんでもなく幸せで、
壊しがたいものなのでしょう。自分を無条件で愛してくれる人がいることも、
自分が無条件で愛せる相手がいることも、どちらも得難い幸せです。

さて、幸せとは素晴らしいものです。素晴らしいものだと知っていますので、

僕たちはまるで幸せになることが人生の目標であるかのように、
「幸せになりたい」だなんて言いあったりもします。

果たして、「幸せ」とはどんなものでしょうか?

フランスの作家ジュール・ルナールは、

幸福とは幸福を探すことである

と言っていますが、僕にはしっくりきません。

『幸福論』で有名なアランの言う

「小雨が降っているとする。あなたは表にいる。傘をひろげる。それで十分だ。
『またしてもいやな雨だ』などと言ったところで、なんの役に立とう。
雨粒も、雲も、風も、どうにもなりはしない。
そんなことを言うくらいなら、『ああ、結構なおしめりだ』と言わないのか」

なんて言うのはもってのほかで、それは憂鬱にならない方法であって幸福に
なる方法とは違う、というのはきちんと歳をとった人間ならば誰もが知っています。

幸福になるには、幸福になる方法を知っていなければならないのでしょうか?

むしろ、幸福などそこらに転がっているもの、日常の中にふつうにあるもの、
というのが僕の考えです

僕は「こちらの道を選んだほうが幸せになれるかも」などという指標で人生の選択を
したことはありません。
目標があり、なりたい自分を目指す自分自身がいる中で、偶発的、もしくは日常的に
もたらさせるのが幸福というものなのであれば、「幸せになりたい」という願望は
いびつな願いなのではないでしょうか?
幸福論に疑問を持つことから、僕自身の幸福論を綴りはじめたいと思います。