「論理的」と「感覚的」の違いについて感じたことがるので、ここに書こうと思う。
「論理的な人だね」「論理的な思考をしているね」と人に言われることがある。論理的とはつまり、物事を順序だてて考える、ということで、人の性質としては特別な部類ではないと思う。しかしながら、違和感を感じるのは僕はもともと「感覚的な人だね」という評価を得ることが多かった、ということである。
これは、僕が「感覚的な人間」から「論理的な人間」に変わったことを意味するのだろうか?けれども、僕は学生自体から「自分が自分として変わらないこと」を尊いものとして生きてきた。進歩は受け入れるが変化は容易に受け入れがたいものがある。
果たして僕は変わったのだろうか。
「論理的な人」の対義語として「感覚的な人」という表現を用いることがある。ここで重要なのは、多くの場合「感覚的な人」という表現はそれそのままでは成立せず、「論理的な人」の対比として用いられることが多い、ということだ。
自分で考えた物事を順序だてて考えられない=論理的な人ではない=感覚的な人だという図式が多いように思う。
ここに、違和感を持った。
なぜならば、論理的思考においても、その論理の質を左右される一因は、ひらめき、つまり感覚的な発見にあるからだ。
これを是とするならば、論理的思考と感覚的思考は相反する関係ではなく、論理的思考に内包する要素か、もしくは並び立たない性質のものだと言えるだろう。まさしくそうだ。世の中の人の性質を「論理的な人」と「感覚的な人」に分けるのではなく、
- 論理的な思考の方式を識っていて、かつ、感覚的な思考(≒ひらめき)をもたらすことができる人
- 論理的な思考の方式を識らず、しかしながら、感覚的な思考(≒ひらめき)の才がある人
- 論理的な思考の方式は識っているが、感覚的な思考の恩恵を得られない人
- 論理的な思考の方式も識らず、かつ、感覚的な思考の才もない人
の4種類に分けられるのではないだろうか。
ちなみに、
1)と3)が論理的な人で、2)と4)が感覚的な人だ。
もちろん、論理的な思考も感覚的な思考も、そこに経験や学問によるサジェストが大いに関係するため、本来はもっと複雑なものだろうと思う。論理は学問だけで得るものではなく、感覚もまた、生まれもった才能だけにあらずだ。そこらへんはまた別の機会に語るとして、問題は1)と3)が混合されること。それ以上に、2)と4)が混合されることである。
2)は素晴らしいが、1)はもっと素晴らしい。
3)は凡夫のように思われがちだが、4)はもっとたちが悪い。
感覚的である、ということは、論理的でない、という言い訳であってはいけない、と思うのだ。天才は環境と才能の有無によって作られるとするならば、秀才は自己認識と努力によって作られる(べきだ)と思う。自分もまた凡夫なれば、せめて研鑽の方向性だけは間違ってはいけない。自己認識だけは、常に正しくあるべきだ、と思う。
「論理的」かつ「感覚的」な人間たれ。
そんなふうに思いながら、お酒を飲んでいます。さようなら。