モカ珈琲はかくまで苦し。

ふるさとがほしい。

子どものころから、「祖父母の田舎」や、「ふるさと」に憧れていました。
東京生まれで、両親の親戚付き合いも希薄だった私には、近隣の親戚を除き遊びにいけるような田舎も、絵にかいたような朴訥としたふるさとももっていませんでした。
年を重ね、付き合う人たちが同郷から日本全国から東京に上京してきている人たちに変わっていくにつれ、
私のふるさとへの想いは強くなっていく一方でした。

都会が気を張って戦う戦場だとすると、田舎はそんな日々の疲れを癒す心の洗濯の場であるはずなのです。

一面の田畑や草原、遠くに見える雄大な山々、トラクターの音や野鳥のさえずり…そんな誰しもの原風景のような「ふるさと」
田舎のそんな風景を見ると、「なつかしさ」を覚えるのはなぜなのでしょう。

室生犀星は、

ふるさとは遠きにありて思ふもの

そして悲しくうたふもの

と詩っていますが、私には悲しくうたえるふるさとさえない!

石川啄木のように、「ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」こともできない!

東京出身でうらやましい、とよく地方出身の人たちは言います。

東京に実家があるなんて便利だね。

と。

しかし、そんな便利さは「ふるさとを持っている」ことの優位性に比べれば、なんとちっぽけなものか!

ないものねだり、と言われるかもしれませんが、しかし、ふるさとは持たざるものにとってはそれほどまでに輝かしいものなのです。

くれぐれも、寺山修司の詩のように、

「ふるさとの訛りなくせし友といてモカ珈琲はかくまで苦し」

なんて揶揄されないよう、堂々とふるさとを誇ってほしいと思います。

(昨今、そもそも訛り自体が薄れているようですが…。)

 

 美しき川は流れたり
そのほとりに我はすみぬ
春は春、なつはなつの
花つける堤に坐りて
こまやけき本の情けと愛とを知りぬ
いまもその川のながれ
美しき微風ととも
蒼き波たたへたり

 

室生犀星 [犀川] より

ふるさとがほしい!と言いながら、変わらぬ東京の街並みにほっとするのは、それが惜しむらくも私のふるさとの風景だからなのでしょう。

 

ふるさとの訛りなどないふるさとの素気のなさもふるさとの色

春木世覇