この記事は、
いいオトナの幸福論(1)
の続きになります。
前回の記事を書いてから6年。私や、私をとりまく環境も6年で様々な変化をしました。
たとえば、結婚をし、妻と2人の子どもができました。
たとえば、会社が変わり、役職が変わり、たくさんの経験をしました。
たとえば、交友関係が広がり、人生観を変えるほど没頭する趣味もできました。
それはそれは、大きく多様な変化です。
では、私自身の幸福の在り方に変化はあったのでしょうか?
もちろん、新たな幸福の種類を知ることはできました。
家族とのふれあいの時間を過ごす幸福。
気の置けない趣味仲間と、この年で夜な夜な酒を酌み交わせる幸福。
より信頼感が深い仕事仲間との、挑戦の幸福。
どれも、6年前には十分に経験していなかった幸福です。
けれども、幸福について改めて考えてみると、幸福の在り方自体は、何ら変わっていない、という事実に気が付きます。私は以前、幸福について、『目標があり、なりたい自分を目指す自分自身がいる中で、偶発的、もしくは日常的にもたらさせる』もの、という定義をしました。それに沿って考えてみると、変わったのは幸福の深度や多さで合って、もたらされる方法や影響力ではない、ということに気が付きます。
幸福論で有名なバーランド・ラッセルは、
最も強い希望は、絶望から生まれる。
という言葉で多くの支持を得ましたが、これは「いちばん思い出に残る幸福」、であって、幸福に気が付くきっかけにはなっても、それが人生の目的足りえる大きな幸福であるとは思えません。
幸福とは、日常にあるもので、あたりまえで、ありふれたものです。
ドイツの哲学者、アルトゥル・ショーペンハウアーは、
「幸せを数えたら、あなたはすぐ幸せになれる」
と言っていますが、私もこれに賛同します。
つまり、不幸せな人は、幸福に気が付いていない人(=幸福を数えていない人)で、自分が幸福であると知っている人は、日常的に発生する幸福に気が付いている人(=幸福を数えられる人)なのではないでしょうか。
そして、この「幸せを数えることができる」能力こそ、幸福になる(幸福である)方法だと私は考えます。
それは、何か。
ショーペンハウアーは、このように言っています。
人生の幸福にとっては、我々のあり方、すなわち人柄こそ、文句なしに第一の要件であり、最も本質的に重要なものである。
人柄、つまり、よい人格であること。
これを実現するのは、自身の美徳です。
私が大事にしている三大美徳は、「礼儀」、「仲良し」、「教養を持つ」であり、「続けること。」「よい仕事をすること。」「仲良し。」です。
プライベートにおいても、仕事においても、「仲良し。」は重要ですね。
※詳しくはこちらの記事を読んでみてください。
▼三大美徳について考える
https://ippaiattena.co.jp/blog/credo/5914/
▼イッパイアッテナ的三大美徳
https://ippaiattena.co.jp/blog/credo/7596/
となると、やはり、目標を持ち、なりたい自分を実現していくことが、実は幸福であることと結びついていることがわかります。
幸福とは、目指すものではなく、自己実現の副産物である。
という気付きをもって、今回はこのへんで終わりにしたいと思います。
毎日、たくさん幸せです。