先日デザイナーの皆口さんと漫画の話をしていたら、話の流れで「つげ義春」の話になり「いいよね」という会話になったのですが、いざ思い返してみると、学生時代に読んだきり、まともに読み返していなく、代表作の「ねじ式」「紅い花」は思い出せても多くの作品を忘れていたことに驚きました。(しかも実家に置いたまんまなので読み返すことができない!)
そんなことを知ってか知らずか皆口さんが翌日つげ義春の漫画を持ってきてくれて(皆口さんありがとう)
隣の女
久々のつげ義春の世界にもう感動してしまって、、、。つげ義春の良さについては他に多くの人が語っていますし、僕が論じるのもおこがましいのですが、それでも一つ語るとしたら物語と深く響きあいつつも、どこかその物語からもこぼれ落ちて独立してあるかのように見える「絵」にあるのではないかと。
物語に回収されることなくむしろ物語と拮抗するかのように、絵そのものとして在る圧倒的な「過剰さ」に僕は深く心を撃たれてしまったようです。ちょうど同じタイミングで最近話題になっていた岸政彦さんの『断片的なものの社会学』を読んでいて。
断片的なものの社会学
これも非常に良い本で、久々に良い読書体験だったのですが、そこにあったフレーズに
聞き取り調査で得られた断片的な出会いの断片的な語りそのもの、全体化も一般化もできないような人生の破片に、強く惹かれるときがある。
ということが書かれていて、一人膝を打つというかここで書かれていることは、どこかでつげ義春の絵にもつながっている気がしてなんだか妙に納得してしまう自分がいました。
どちらもとてもおすすめの漫画&本です。よろしかったらぜひ読んでみてください。