中野 大河なかの たいが
ついた餅より心持ち
「中野大河」は、ふつうだった。
中野家の母はPTAや地域の子供会などの役員を自ら進んでやるような地域一のお節介おばさんでした。そんな中野家には人がいっぱい集まりました。
会ってすぐ打ち解けられる子や何回来ても緊張している子、あと30分で帰ると言って2時間は帰らないマダム達。
そんな環境からかいっぱいの個性を見てきました。
地域密着型の中野家なので地域行事の手伝いは僕の生活の一部でした。
お祭りではかき氷を売り、地域のおじさん達にビールを注ぎ、祭りが終わればやぐらの解体。球技大会ではママさんバレーの練習相手、みんなの弁当に買い出し。など、天気の子でいう帆高くん状態です。
部活はサッカーをやっていました。
ボランチという11人の真ん中あたりでウロウロしているポジションです。
体も小さく足も早くない僕でも、足が速い/ドリブルが上手いなど、選手たちの個性をいかに発揮出来るようにするかを考えて、どこに人が足りないかを考えるだけで試合を変える事が出来るこのポジションが好きでした。
そんな生活を送っていたので自然と出来るようになりました。
人の個性を見出す事・生かす事、いま全体として何が足りないかそして複数の作業を同時に行うこと。
そしていろんな個性を見ていてわかるようになりました。
自分がふつうの人であるということに。
「中野大河」を、見つけられた瞬間。
将来の夢はなんですか。という質問が嫌いでした。
みんなが憧れの職業を答える中、ふつうの人である僕は適当な職業を言って誤魔化して生きてきました。
十八にもなるとふつうの人である事に焦り出しました。
それも影響して、大学ではデザインを学び軽音楽部でドラムを叩き、さまざまなバイトをして、自分が何者かを模索しました。
卒業後、看板やイベント装飾をする会社に入社しました。一度自分が何者かは考えず、ひたすら頑張ってみる事にしました。
仕事を頑張っていると、みんな自分の個性に気付けていない事/いま何が必要かを理解出来ていない事に気づきました。
・あなたのカフェは洗練されたイメージなのになんでそのような装飾をしているの?
・いま、この作業しておかないとあとで困っちゃうよ。
僕がいままでふつうにやっていた、人の個性を見出す事・生かす事、いま全体として何が足りないかを把握して対処する事が仕事になると気づきました。
何者にならなくても、ふつうの人のままでも輝ける場所を見つけました。
「その人だけ」の、鮮やかな彩りを。
フリーランスでWeb制作をする人になりたかったんです。
お客さんの要望を聞いて、「その人らしいサイト」を作る自信がありました。
しかしイッパイアッテナに入社してからすぐフリーランスを目指すのをやめました。
電話に出られないけれどデザインが飛び抜けて得意な人。こんな機能出来たら良いなと言ったら作れちゃう人。イッパイアッテナには個性が溢れていました。
社内のメンバーの個性を生かせば、お客さんの「その人らしいサイト」ではなく、
「その人“だけ”らしいサイト」を作る事が出来ると気づきました。
僕はWebディレクターという仕事が好きです。
いろんなお客さんの手伝いをさせていただきながら、その会社の人になりきりながら仕事が出来ます。
ドラマに出ていろんな職業を演じている俳優よりいろんな職業になりきれます。
ふつうの人、白いキャンバスの僕だからこそカメレオン俳優よりも何者にもなれて、お客さんの色を鮮やか彩りで表現出来ると思っています。
「中野大河」は、お節介じじいなりたい。
居酒屋で人気者なおじいちゃんになりたいのです。
いろんな若者の悩みを聞き様々な職業になりきってアドバイスをしたり。
みんなが歌いたい雰囲気になったらギターを弾いたり。
関わる人たちの人生の選択肢を増やしてあげられるようなお節介じじいになるために、僕自身の知識だけでなく経験の幅を増やしたいんです。
「中野大河」だから、できること。
将来の夢はなんですか。という質問をされたらこう答えます。
「新たな一歩を踏み出すきっかけを与えられる人になりたい。」
はじめの一歩でいう鷹村さんのように。
よく朝ドラで出てくるおじいちゃんのように。
その人の個性=色を見出しそれを引き出す。そしてその人が新しい一歩を踏み出して自分だけらしく輝けるようにしたいです。
中野さんとだから出せる色があった。中野さんとしか出せない色があった。
そんな言葉を求めて生きています。
聞かせてください、あなたの色は何色ですか?
2022年4月7日
中野 大河
中野 大河
ディレクター
中野 大河(なかの たいが) 1989年12月20日生まれ。ディレクター。白いシャツへの異常なまでのこだわりを見せる。日々ベストな着心地を探している。